先ほど書き忘れましたが、会場は大勢の若い人を含め、約100人はいたのではないでしょうか。ほとんど満席状態だったと思います。もう何回目のフォーラムでしょう?とにかく、フリースクールネットワークの教育フォーラム継続の賜物ですね。
さて、平野先生のお話の中で印象に残ったことを、メモして来たので、それを解読してみます。いつもながら、判読不明の文字なので、帰宅したらすぐ書かないと、自分でも何て書いたか翌日にはもうわからないわけで・・・。覚書ですから、まとまりませんが、書いていきます。
まず、不登校は「病気」ではなく、「学校に行っていない状態像」である。不登校の問題は、当事者やその家族だけの問題じゃない。周りのまなざしが、苦しみの80パーセントを占めているのではないか。97パーセント(登校率)じゃない子どもたち、というまなざし。このまなざしって、何なんでしょうね?と平野さんは問いかけます。この「まなざし」がない環境では、子どもたちの顔が明る(平野さんがかかわっているイベントの映像を見て)。
・不登校の子の歩みは、自転車の歩みに似ている。彼らは、自転車の歩みをしている。ところで、自転車の旅は良い。例えば自転車で二人で旅すると、始まったら代わってあげることができない。人生と似ている。例えば可愛そう、と思っても人生を代わってやることはできない。坂に出会う度に、「がんばれがんばれ」と言っては、くたびれる。「いつががんばり時か」ということを考える。人生も同じ。それから、自転車の旅は、ただこいでいるだけで、色々なことが起こる。色々なことが起きる中で、その子が学ぶ。アクシデントがイベント。不登校というチャンスを得て、自分の見方を見つけていく。
また学校はストレスの高い場となっている。3パーセントの子どもが不登校をしている一方で、1パーセントの教師も学校に行っていない。
不登校は状態像であるから、「不登校の子どもたち」という子どもたちは、どこにもいない。そうい名前の子はいない。
それから、こんな話も参考になるしれません。お話の中にこういのが。朝おなかが痛いというので、「それね、ちゃんと言ってみればいいんだよ」と言うと、「学校に行きたくない」と。ある例です。心と体はつながっていますものね。
もう一つ、興味深いことを言っていた。ええと、選択肢が少なくても、「なんとなくいいな」と思う方に行くのが、統計上もどうやらうまく行っているらしいんですって。うちの会なんかでも昔から、「自分で決める」ことの大切さが、何度も話題に出ていますが、「選択肢が少なくても」というところが、興味深いな。さらに、平野さんは言ってました「それで、もし失敗しても誰かのせいにしちゃえばいいんですよ」(笑)。