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その前に、ソーシャルワークって何?ですよね

例えば病院には医療ソーシャルワーカーと呼ばれる人たちがいて、患者やその家族の様々な相談に乗ってくれたりするので、ソーシャルワーカーという言葉は現代ではよく耳にする言葉ですよね。、何か困ったことに対して相談に乗ってくれる人だ、というイメージかな。

では、ソーシャルワークって何なんでしょう?そう言えば、昨年のアーベルの学習会でも、函館アカシヤ会の野村さんが、ソーシャルワークの視点から不登校を考えるお話をしてくださってましたっけ。

レジメに、「国際ソーシャルワーカー連盟」による定義が出ていました。

 定義「ソーシャルワーク専門職は、人間の福利の増進を目指して、社会の改革を進め、人間関係における問題解決を図り、人々のエンパワーメントと解放を促進していく。ソーシャルワークは、人間の行動と社会システムに関する知識と理論を利用して、人々がその環境と相互に影響し合う接点に介入する。人権と社会正義の原理は、ソーシャルワークの拠り所とする基盤である」おお~、なかなか奥深くて難しい。

お話のメモから

ソーシャルワークは、解決志向。あまり原因を問うことはやめよう、特に引きこもり問題では。その人に問題があるのではなく、人々と環境とのミスマッチと捉える。ソーシャルワークでは、子ども・若者問題に犯人はいないと考える。

今回の家族支援のお話は、引きこもりの家族支援がメインで、不登校については、直接は余り語られませんでしたが、不登校問題にも大いに参考になるなあと思うことが多かったです。

不登校の問題も、ソーシャルワークの視点で捉えると、子どもと学校という環境のミスマッチということだと思うんですよね。で、誰が悪いの?という犯人捜しや、何が悪いの?と原因捜しに目を向けるよりも、「今、これから、どうしよう?」ということを考える。このことに目を向け、意識を向ける。建設的に考える。


そうか、時々不登校関係の講演などで耳にしてきた「不登校問題で、犯人捜しはやめましょう」というのは、きっと、このソーシャルワークの視点に立って出て来た考え方なのですね。

でも、現実には、こういう感じ方、とらえ方が多いのではないでしょうか?不登校になると、子ども自身は、学校に行けない僕はだめなんだと自分を責め、親は自分の子育てに問題があったのではないか?=自分は親としてダメなんじゃないかと責める。以前、学習会でお話してくださったカウンセラーの方が、二階では子どもがうつうつとし、階下では母親がうつうつとしている、と表現されていたのを思い出します。一人ではなかなかソーシャル・ワークの視点で見るのは難しい。

話が飛びますが、例会では子どもに直接会うわけじゃないので、親の会って、今困っている親たちのためにあるんですよね。だけど、参加して皆でお互いの気持や経験、情報、失敗談なんかを話しているうちに、自分が考えていたことの他に、こんな考え方があるんだ。こんなとらえ方もあるんだ、あ~らこんないい加減でもいいんだ(爆)、自分の考えに他のメンバーの経験がブレンドされて、私なども「べき人間」だった昔に比べて、随分幅が増えた(体型も・・・)と思います。

で、何を言いたいかというと、ポイントは「子どもじゃなくて、自分」ということ。長谷川さんが、家族支援の大きなテーマは、「(自分の)家族の問題を直接に解決することはできなくても、わたしがわたしにできることはあるのです」ということだと言っていたんですよ。あるいは、家族支援は、脳味噌を軟らかくする支援、と。家族のシステムを軟らかくしていく、曖昧さを手にしていく、いい加減さをはぐぐませることが大事と。